うれしいきもち


人は誰だって譲れないものを持っている。
だけど誰も完全ではないから守ろうとしても脆く崩れたり、手をのばしてもすり抜けていくばかりで自分を見失い、深い闇に一人で堕ちていく。

本当の俺はきっと臆病でプレッシャーには弱いほうなんだと思う。この1冊のノートが何よりの証拠だ。
これがなければ今まで一人で何も乗り越えてこられなかった気がする。臆病で弱虫だからデータを緻密に集めて安心しないと、完全なフリさえもできないのかもしれない。
何が完全か、なんて、誰にもわからないのに、何故完全をいつも求めてしまうのだろう。

いつもと変わらない下校途中、珍しく意気消沈している乾は溜息ばかりついていた。
きっと自分でも無意識なんだろうと、海堂は思ったけれど、いつもは疲れも見せずに話しかけてくれる乾があまりにも「らしくない」ので、思わず言葉に出てしまう。

「…乾先輩、何かあったんスか?」
「え、…いや、何も……」

慌てて頬笑みを作っていつものように振舞う乾だけど、海堂にはとっくに何か悩んでることくらいはわかっていた。
結構あらゆることには、鈍感な自分だが、乾のことだけに関しては酷く敏感になったと思う。
それは別に「わかろう」と思っているわけではなくて、何故か「わかってしまう」のだ。
それはきっと急に距離が近づきすぎた所為で見なくていいものまでが見えてしまう「恋の効能」みたいなものだろう。
特にそれ以上は何も聞かず、じっと乾を見つめた海堂に、再び乾は大きなため息をつき、ふっと観念したように笑った。

「…海堂には愚痴っちゃおかな。……聞いてくれる?」

なんて間抜けな様子で笑う。妙に情けない乾の甘えた口調がやけに新鮮だった。

「俺でよければ」

あまり人の愚痴や相談事など聞かない海堂が他人を受け入れる姿勢を示すのも乾のことだからで。
自分に話してくれることで乾の心の負担が少しでも軽くなるのなら、それは意味のあることだと思った。
歩いていた足を止めて、海堂は静かに公園を指差した。乾もひとつ頷いて、二人は夕暮れの公園のベンチに腰をかけた。

「最近、自分がうまくいかないんだよね」
「…はぁ…」

あまりにも曖昧すぎるその内容に的確な返事もなく、ただただ横でぽつぽつと心の徒労を零す乾の言葉に耳を傾ける。
他人のことにはやたら必要以上に詳しい乾は自分のことになると全くの鈍感人間で、海堂はたまに呆れることがある。
自分で自分の首を絞めてる感が否めないところに本人は気付いているのか、と思うけれど、それは言わないでおく。

「自分が何でこんなにデータに固執するのかもわかんないし、ましてやその時は完璧だと思ってたデータは翌日見たら、穴だらけなんだよね、実は。
完璧って、完璧と思いたい自分が作り上げてる妄想なのかな」

「…はぁ…」

「いや、学校や部活は充実してると思うし、なんてったって海堂もいるから、俺は楽しいし、幸せなんだと思うよ。
でも!でも、俺がこのノートに毎晩毎晩書き続ける意味はなんだろう、って思ったらさ…非生産だなって思ったら空しくて」

「うーん…」

「ねえ、海堂、どう思う?」

どう思う?って聞かれても、そもそも根底の話が理解できない海堂には答えようすらない。
言葉も難しいがそこに至るまでの考え方も複雑で、自分なら絶対にこんな考えには至らないと思う、と何に悩んでるかすらわからない。
ただ、乾がそれほどまでに真剣に思い悩むのだから、少しは元気を取り戻して貰う為に、自分は何ができるか、何を言えるのかを海堂は考えた。

「う゛〜………」

非生産、という最後の言葉がやけにひっかかったのを海堂は考えた。
非生産、産んでも仕方ない、作りだしても意味のないこと、という意味で受け取れば、乾のデータは非生産なのか、と疑問に思う。
確かに乾汁とか絶対的に必要のないものもあるけれど、自分は何度もこのデータに助けてもらったし、そもそも乾とダブルスを組んだことだって最初はデータが弾き出したことだと乾から聞いた。
もし乾とダブルスを組んでいなければ、自分は変わらず一人でいたんだろうと思うし、こうして乾と深く触れ合うような会話さえしていない筈だ。
そう思えば、何一つデータが非生産だとは思えなかった。

「アンタが非生産だと思っても、必要としてる奴はきっと、この世のどっかにはいんだよ。それに…」

ポツリポツリと絞り出されるような言葉を、黙って見守る乾。

「例え非生産だとしても、アンタがデータを信じることで気持ちが落ち着くならそれは非生産じゃねえだろ。救われてんじゃねーか、データに。
それだけで意味があると思う、俺は…アンタを苦しませるものから遠ざけたいと思ってる。だからアンタがそれに固執して一瞬でも完璧だと思える瞬間があるならそれでいい」

「海堂…」

「難しい話はわかんねえけど……自分に迷う事なんて乾先輩だけじゃねえし…」

そう言って海堂はぽりぽりと頭を掻いて言葉を止めた。言葉にするとこういう曖昧なことや心の不透明な澱みの悩みは余計に難しくて、うまく言葉にできない。
大丈夫だよ、と言えるほど気軽なものでもないし、かといって乾が考えるほど深刻な話でもないような気がする。本当の悩みの想いの深さなど、本人にしか知りえないのだ。
そんな乾を見て、自分が言えることといえば…。

くいくい、と乾の袖を引っ張る。

「ん?」

「乾先輩、頑張れよ」

真剣な目で射抜くように乾を見つめた。考え抜いてやっと出た言葉はそんな単純な言葉で、でも何故かその一言がやけに照れくさくて海堂は頬を赤くした。
なるべく明るい雰囲気で言おうと、心がけた少しの笑顔も自分ではやけに不自然で。あまり、こういうことは言い慣れない。心の中で思う事があっても、口に出ることはほとんどない。
言ってから訪れた沈黙に気恥ずかしくて海堂は目を伏せた。すると乾の小さな笑い声が聞こえた。

「…っ…どうしよう、海堂、俺、すっごく嬉しいんだけど」





噛みしめるように笑う乾の片眉が上がって、レンズの奥で優しい目を見せた。いつもの乾だ、と思うと心の中がドキドキと音をたてて、この笑顔も大好きなひとつなんだな、と改めて思い知る。

「…ぅ…っ」

「っ…嬉しくて……なんて言ったらいいかわかんない…言葉では説明できないなぁ…こういう気持ちって」

普段はやけに難しい事を考えるくせにやっぱり自分の気持ちとなるとこんなことを言う乾は本当に変わった人だな、と思う。
でもそんな乾が好きだし、とてつもなく愛らしいとも思う。先輩とかそんなこと関係なく。自分も乾以上の不器用さを自覚してるだけに、まるで合わせ鏡のようだ。
痛みの場所や感じる嬉しさの場所がすごく似ている。

「じゃあ言葉にすんな」
「うん…じゃあ、海堂、態度にして表わすよ。………抱きしめていい?」
「だからそういう事もわざわざ言葉にすんなっ!」

謝りの言葉より先に乾の腕に囚われて、海堂はすっぽりと乾の胸の中に収まってしまった。ドキドキと乾の心臓の音が早くなっているのを聞けば、乾の緊張が体を通して伝わってくる。
普段は完璧に見えている、この人だって完璧じゃないから色々もがいて迷ってる。そんな一面を自分に見せてくれたことが嬉しかったし、なぜかやけに安心した。

(俺だけじゃない)

聞こえる心臓の音はどんな言葉よりも有効で。一瞬の笑顔は何よりも元気をくれる。うれしいきもちが溢れだせば大切な人にやさしくしたくなる。

「海堂、ありがとうな。お前がいてくれてよかった」
「……ッス」



きっとこんなに穏やかでうれしいきもちは言葉にするよりも早く。お互いの肌に伝わってくるのだろう。
聞こえてくれる心の音がどちらのものかわからなくなって心地よいぬくもりに誘われた。







Understandの如月優希さんから頂きました!
ちょっと前に、色々と大変そうだった如月さんに簡単な応援絵を押し付けてしまったら、なんとこんな素敵な御礼SSがやって参りました…!うわーやったあ!!(笑)
本当にささっと描いただけの、海堂が「がんばってください」と微笑んでいる単品絵だったんですが、あんな落書きからこんな素晴らしいお話が生まれるとは…!

如月さん、本当にありがとうございました!これからも応援していますよー!