TEARS WITHOUT WORDS
始まりははっきりしていた。あの日、全てがオレンジに染まるあの河原。空も川面も、濡れた身体も。まとった水滴、手に持つ手ぬぐい、そこから滴る雫。一体自分がどんな顔をしているかなんてことはわからなかったが、背に負う太陽が夕陽のくせにやけに熱かった気がする。
あの日、あいつがOKと言わなければ―――いや、俺がOKと言わせられなければ何も始まってはいなかっただろう。
あれ以前も以降も、数多くの大会と試合を共に過ごしてきた。最初あいつは義務感だけで一緒にいたのだろう。練習しなくては、ダブルスコンビネーションを築き上げなければ、俺を利用しなければ。俺も極力その姿勢に応えられるような態度をとってきた。
それが変わってきたのはいつ頃からだろうか。こればかりはあの河原での出来事のようにあの日あの時と特定するのは難しい。ただ、試合を重ね共にいる時間を重ねるにつれ明らかに俺たちの関係は深まった。
隣りにあいつがいないと物足りなかった。声を聞かない日があると味気なかった。部活がないと苛ついた。でも、自主トレで会えば苛々もふっとんだ。
自惚れでもなんでもなく、あいつも同じなんだと最近では自信を持てるようになった。笑わなかったあいつに薄い笑顔が浮かぶようになった。肩の力を抜いて話す声は意外に鼻にかかった少年らしい声だった。威嚇するような目つきは本来ひどく優しい色を湛えていた。そして、それが俺だけに向けられていると気がついた。
一緒にいるのが当たり前。
2人でいるのがいちばん自然。
そんな暗黙の了解ができて、一体どれくらいが経つというのだろう。なのに、俺は言ったことがなかった。
お前が好きだ―――と。
***
夕陽を背負った先輩の表情は、あのメガネのせいで全然読めなかった。ただ、オレンジ色の背景の中であの先輩だけが妙にぽっかり浮かんでいてそれが不思議だった。
きっと、あの時オレがOK出さなかったらオレは今ごろレギュラーでいられたかどうかすら怪しい。それだけじゃない。こういう世界を―――こういう感情を持つことにもならなかったんじゃないかと思っている。
ずいぶん長い間一緒にいるような気がする。あの日よりずっと前からあの先輩とは付き合いがあったし、それこそ2年以上同じ部活に所属している。だが、隣にいないと変な感じがしたり落ち着かなかったりするように思うようになってどれくらい経つんだろう。
今でも人とつるむのはあまり得意じゃねえ。もちろん必要なことならやるし嫌でもねえ。だが、やっぱり馴れない。どういう顔していいか、なに言っていいかわかんねえことはまだまだ多いし、なかなか思ったとおりのことを言ったりやったりできねえのも相変わらずだ。
なのに、あの先輩には違う。
気づくとべらべら喋ってる。
いつの間にか笑ってる。
当たり前のように甘えている。
そんな自分に気づいたのはいつだっただろう?自分がそんななるのはあの先輩にだけだと自覚したのはいつだったろう?そんなのは不毛な問いだってのはわかってるが、ふとした瞬間、自分に訊いていることがある。
答えなんて出るわけがない。だがひとつだけ確かなのは、おそらく一緒にいるほうが自然なんだろうということだ。いなくて違和感あるなら一緒にいればいい。ひとりでいるより楽しいことが多いのなら、ふたりでいればいい。
それはきってと先輩も思ってるだろうとなんとなくわかるし、伝わってくる。あえて約束しなくても一緒に帰り、自主トレをし、たまに出かけて。きっとそういうもんなんだろうと思っている。だが、オレは言ったことはない。
アンタが好きだ―――と。
***
「やあ、海堂。お帰り」
自主トレ上がりの海堂を部室で迎えたのは乾だった。ベンチシートに座りなにやらノートパソコンをいじっていたが、海堂が帰ってきた途端、閉じてしまった。
「先輩?どうしたんスか?」
「いや、補習が思ったより早く終わってね。久しぶりに様子見に来たんだ」
乾たち3年生は一線を退き、放課後に内部進学者用の補習を受けなくてはいけない時期に入っていた。本引退はまだまだだったが部活に遊びに来る頻度は圧倒的に減っていた。
「様子見に来たって……誰もいねえじゃねっスか」
「うん、だから海堂の様子をね」
「なに言ってんだか」
こんな会話はいつものことだが、海堂はいつまでたっても上手い返答ができないでいた。この時もふいっと背を向けばさばさと着替え始めてしまった。そして、海堂の着替えは早い。あっという間に制服になるときれいにたたんだタオルとウェアをキャリーバッグにしまい、その様子を薄い笑みを浮かべ眺めている乾の横に座った。
「なんスか、さっきから?気持ち悪ぃ……」
「なんだよ、それは。失敬だな」
「なんも言わねえで見てるから」
「何か喋ってたら見てていい?」
屈託なく笑う乾に海堂は「馬鹿か!」と言いながら肘鉄を食らわせた。こんなのもいつものことである。だが、乾は普段ならそのままふざけた会話を続けようとするのに、この時はなぜだか黙り込んで再び海堂を見つめていたのだ。
「先輩―――?」
海堂は乾の見たことのない表情に不安を覚えた。
「あのさ、海堂」
「はい?」
「ダブルス組むことになった頃のこと、覚えてる?」
海堂にしてみればこんな馬鹿な質問はなかった。忘れろと言われても忘れられるはずのない出来事だ。
「当たり前のこと訊くな」
「はは、ごめん」
乾はまた黙り込んでしまった。
「先輩?なんかおかしいっスよ?」
「ん?ああ……そうかな?」
「具合でも悪いんっスか?」
「いや、いたって健康。ただ、ちょっと考えすぎかな」
「あんま根つめてやんなよ、勉強」
「うん、勉強はそんながつがつやってない」
「じゃあなんで―――」
「お前のこと」
「はい?」
「お前のことをね、ずっと考えてた」
このようなことを言われても大騒ぎしたり無駄に乱暴になったりしなくなったのは海堂の大きな成長である。だが、それでもいきなり言われると戸惑う。
「そんな、なに言って……」
「あのね、ちゃんとはっきりしなきゃいけないなあと思って」
「何を…ですか?」
「お前とのこと。俺がお前のことをどう思っているか、お前とのことをどう考えているかってこと」
海堂は何も言えずに乾を見つめていた。突然ふられた話題になかなか頭も心も追いついていかなかったのだ。そして乾の口振りからもしかすると別れに等しいことを言われるのではないかという不安がふっと湧いたのだ。
だが、そのわずかな不安を乾は敏感に察知した。
「ああ、違うよ、海堂。嫌な話じゃない―――と思うから安心して」
そう言って乾は海堂の右手にそっと手を重ねると続けた。
「あのさ、2人でいる時間って多いじゃない?」
「……?……はい」
「なんかもう、いるのが当たり前っていうか」
どこか困ったように笑う乾と目が合った海堂は同じように僅かに微笑んだ。肯定の証だ。
「いつの間にかそんな風になってたから、きちんと言ってなかっただろ?」
海堂は、乾も自分と同じようなことを考えていたと知り一瞬おかしくなってしまった。だが―――
「オレは別にそういうの気にしてねえっスよ」
「海堂が気にしなくても、俺はなんか気持ち悪いんだよね」
「気持ち悪い」という言い方もどうかと思うが、いかにも乾らしくて海堂は怒る気すら起こらなかった。乾は言葉や筋道をひどく重んじる傾向がある。海堂にしみれば、なにもそこまで――と思わなくもないが、あれだけ言葉や理論を駆使できるのだからそれも当たり前だろうとどこか納得していた。
「で、何が言いたいんスか?」
「うん―――海堂、 」
乾はなんの疑問もなく自らの右手を海堂の頬に添えると用意していた言葉を言おうとした。しかし、ふと躊躇ってしまった。目の前にいる海堂と、その海堂がテニス部に入ってきてからのこと、初めてこの生意気な後輩に興味を持ったときのこと、初めてランキング戦で当たった時のこと、新人戦、地区大会、全国―――と、一瞬にして頭の中を駆け抜けた記憶が、乾の言おうとしていた言葉を引っ込めてしまったのだ。
違う、この言葉じゃない。
乾は選択しなおした。自分の海堂に対する想いがこの言葉では現しきれないなら、まだ別の言葉がある。その言葉は15やそこらの子供が口にするものではないだろう。だが、最初の選択肢よりは当てはまる気がする。
すでに海堂は不審そうな、不安そうな顔つきで乾を見ていた。乾は再び口を開いた。
「海堂、あのね――― 」
しかし、せっかく選択しなおしたのにまたもや乾は阻まれてしまった。違う、そうじゃない、そんなものじゃないだろう―――と内側から衝き上げられるようにして言葉を詰まらせてしまったのだ。
乾にはショックだった。全ては言葉で説明でき、理屈づけられると思っていたからだ。無宗教の乾だったが、そんな乾に「神様」といえる存在が在るとしたらまさに「言葉」と「理論」だった。
それなのに、言葉が自分の想いを伝える術にならないという事実がショックだった。
なによりも、自分に伝える術がなにもないのだという現実がショックだった。
気づくと頬に置いていた右手は海堂の腕を掴み、乾は項垂れていた。
逆に海堂が乾の頬に触れ、そのままゆっくり顔を起こした。
「どうしたんスか?―――アンタらしくない」
海堂は笑うでもなく焦るでもなく、ただゆったりとした優しい顔をしていた。ブラインド越しに差し込む夕陽が顔に映え眩しかった。
すると海堂は乾の眼鏡を外し、手でそっと頬を拭った。乾はその時初めて自分が落涙しているのだと気づいた。それでも止めることは出来なかった。
「海堂―――」
「バカだな、アンタ」
「ごめん………」
海堂はそのまま乾をあやすように抱え込んだ。いつもとは正反対の状況ではあるが、乾はそのまま頭を海堂の肩にもたせかけた。
「あんだけ宣言しておいて―――情けないな」
その声はくぐもっていたが、嗚咽などは聞き取れなかった。ただ涙ばかりが溢れているようだった。そんな乾の頭を撫でながら海堂が答えた。
「別に情けなくはないだろ」
「でも俺は、なにも言えなかった」
「先輩―――」
「こんな大事なことなのに、なんら伝えられない。その術を持っていないんだ、俺は」
背中に回された乾の腕に力が籠もった。わずかではあるがその指先が小刻みに震えているのが海堂にはわかった。
「先輩、オレ、いらねえから―――」
「え……?」
「言葉とか、いらないから」
海堂はそれだけ言うと乾の髪の毛に頬を摺り寄せた。
「海堂、でも―――」
「いいんだ、わかるから」
「何を?」
「アンタが言おうとしたことも、なんで言えなかったのかも、ちゃんとわかってるから」
乾にはなぜ海堂がわかるのかがわからなかった。乾でもわからないことを、どうして海堂がすでに理解しているのだろうか?
「海堂―――どうして?」
ふ、と髪の毛が揺れたような気がした。海堂が笑みを漏らしたのかもしれない。だが、次の瞬間―――
「オレとおんなじだから、わかる」
海堂がそう言った途端、乾の耳に熱いものが伝った。
涙―――――
そして乾は全てを悟った。口数の少ない海堂は、今まで言わなかったのではなく言えなかったということ。そして、言う気もないことを。
なによりも、そんなことを言わなくても伝え伝わる術はあるのだ、と。
2005.01.18